皆さん、こんにちは!
オンラインスクールスタッフの松山です。
突然ですが、皆さんは毎週日曜夜、20時から
放送のNHKの大河ドラマ「篤姫」はご覧になってますか?
私は歴史好きなこともあり、
毎週欠かさず見ています。
5月の母の日にたまには親孝行をしようと、
伊豆の下田温泉郷へ行ってきました。
そう、下田といえば、いままさにその「篤姫」で放送中の
ペリー来航やその後のアメリカ初領事館、ハリスが
滞在していた幕末にゆかりのある地として有名ですよね。
いまから約150年前、この下田湾に
アメリカの蒸気船軍艦が突然、来航したわけです!
いまは見る影もありませんが、
この静かな湾に軍艦が押し寄せた時の人々の衝撃は
計り知れないものだったのでしょう。
少々、歴史を紐解いてお話をしますと、時代はまさに幕末。
それまで、徳川家康が江戸に幕府を開いてから約250年間、
鎖国が続いていた日本にまさに西洋の波が押し寄せたのです。
ことの始まりは1853年。
アメリカ艦隊マシュー・ペリー率いる4隻の軍艦が
日本に開港を求めて江戸湾(浦賀湾)にやってきました。
当時、1200名強の水兵を連れて来航したそうですが
それまで長い時代鎖国をし、異国人と全く交流のなかった
日本人にとっては異国人の容姿は、とてもめずらしかったようで
ペリーのいろんな風刺画が出回ったそうです。
ちなみに当時の日本には伸ばす音(ー)が<なかったため
“ペリー”ではなく、”ペルリ(彼理)”と
発音されていたんですね。
その後、アメリカの要求に応え、下田と箱館が開港されました。
そしてこの後、皆さんご存知の通り日本は、それまでの
尊皇攘夷派、つまり幕府政権を守ろうとする考えと、
開国派に国が二つに割れ、まさに激動の時代へと
突入していくわけです。
そんなわけで、下田でペリーと日本初の
アメリカ領事館、ハリスの足跡を追ってみました。
まずは、ペルリ隊長にご挨拶!
日米和親条約が締結されたことにより、
軍艦でペリーと共にやってきた約1200人の兵士達は、
下田から半径25KM圏内の領域の行動範囲を認められました。
そして、交渉の場所として、またペリーの休息所として
ここ了仙寺が使用されていたそうです。
本堂しか現存していませんでしたが、今もその場所に
異国人がいたことを思わせるかのように”アメリカジャスミン”
(日本名:ニオイバンマツリ)が綺麗に咲き誇り、
とてもいい香りが一面を覆っていました。
そして、本堂正面の門からまっすぐに歩くと
ペリーがよく散歩をしていたと伝えられている
“ペリーの小径”が目の前に広がります。
ペリーはことのほか、日本の異文化に興味深く、誰よりも
日本人との交流を望んでいたと伝えられているそうです。
異国の地で、いったいどんなことを考えながら
この道を散歩していたのでしょうか。
さて、この後およそ2年の滞在期間を終えて帰国した
ペリーに代わり次に、初のアメリカ領事館、ハリスが
下田にやってきます。
ハリスがもたらした、日本では既に
当たり前の飲み物となっているあるものとの
関わりについては、後半でご紹介します。
後半編は、また次回にて!
こう期待!
コメント