皆さん、こんにちは。
デジハリ・オンラインスクールの松山です。
お待たせいたしました。
ペルリとハリスに会いに下田への旅後編をお届けします!
前半ではペルリ隊長の足跡を追いましたが
旅の2日目(後半)では、初アメリカ領事となった
ハリスが日本にもたらした、様々な影響についてお伝えします。
函館と下田の開港に成功したペルリに代わり、
次に来航したのがハリスと秘書官ヒュースケンでした。
1856年9月、ハリスはここ玉泉寺に
初アメリカ領事館を創設しました。
実際足を運んでみると、想像よりも小さく
とても地味なお寺でした。
境内の左奥の階段を上がると、そこには日本に来航する
途中で船上で病死した兵士達の、お墓5体があります。
さすがにお墓の写真を撮ることはできませんでしたが
石碑には全て英語で氏名や出身地、功績が刻まれていました。
これが、日本初の外国人墓地だそうです。
今でもアメリカの歴代領事は就任するとまずは
ここ玉泉寺を訪れ参拝されるそうです。
さて、旅の前編でチラッとお話しましたがしたが、
黒船来航は日本にとって単に貿易のためのく
開港をもたらしただけではなく国を開くことにより、
異国の”文化”にも影響を受けていくのです。
ハリスが5年ほど滞在していた際に日本にく
もたらしたいまの私達の生活では欠かせない飲食物とえば
それは、牛乳と牛肉です。
※写真の右下にあるのが「牛乳の碑」です。
それまでの日本では牛は耕耘・運送のために飼うだけで
牛乳は子牛を育てるものに過ぎなかったのです。
しかし、ハリスが体を壊した際に、本人の希望により
医薬として飲むことが許されたことがきかっけとなり、
人々の間に牛乳が栄養価の高い飲み物として知れ渡りました。
そして、いまのような日常食へとなっていったそうです。
また、開国までは牛肉を食べる習慣もなかった日本で、
初めて食用の牛を飼い、食用のために絞めたところが
玉泉寺の境内の中だったようで、その牛がつながれていた
木がそのまま残っていました。
さて、この時代にここ下田で忘れてはならない偉人が
もう一人いるのを、皆さんご存知でしょうか。
それまで異国人を知らなかった日本人の大半が
外国人を見て驚き別物をみるかのような視点で
捉えていた中で全く異なった目線で異国を見る、
先見の目をもった人がいたんですね。
それがこの人、吉田松陰です。
ペルリやハリスの滞在時に、個別に異国人との
取り代わす事は禁止されていました。
そこで、いち早く異国に興味関心を持った松蔭は、
金子重輔と共に帰国の途に着く軍艦を小船で追いかけ、
異国へ連れて行ってほしいと船越しに、
直談判に乗り出したのです。
ハリス達は、日本国との約束でそれはできないと、やむなく
断り松蔭たちの夢は崩れ、その後、尊皇攘夷を唱える
国家の方針に背いたとして<処刑されることになるのです。
こうして1つの歴史を紐解くだけで、その当時の人々や
町の様子、更にはそれにどれだけの人の努力があったのか。
そんなことが、想像の範囲ではありますが、
ひとつひとつ 明らかになりますね。
「過去」の様々な歴史があって「現在」の裕福な日本が
あることをまた痛感させられました。
皆さんの旅の中でも、何か発見がありましたら
是非教えてくださいね。
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